蔵〜其弐

ずっと「神隠し」にあっていた兄さんが帰ってきた…
父さんが死んで天蓋孤独になってしまった俺にとってそれは凄く嬉しい事だった。
兄さんはいなくなった間のことを全く覚えていないという。俺の話を聞いた秘書の狭山が偶然兄さんらしい人物を見つけたから…といきなり、そう、いきなり兄さんを連れてきたんだ。どういう経緯で兄さんを見つけたのかは一切話してくれない。
でも、俺にとってはそんなことどうでもよかった。ただ兄さんが傍に戻ってきてくれただけで…そう思っていた。

最初の頃兄さんは極端に太陽の光を嫌がった。今では大分それにも慣れてきたようだが外出はしない。
「気晴らしにどこか行こうぜ」と、俺が何度誘っても、「世間的には『死んだ』事になっているから今更出歩くのはマズイだろう」…そう言って兄さんはいつも断る。せいぜい庭に出るのが精一杯…
病気なのかな…そう思って強引に医者を呼びつけて診察したけど身体に特に悪いところはないらしい。おそらく精神的なものではないか…そう医者は言っていた。
失われた兄さんの記憶と何か関係あるのだろうか?

兄さんには悪いかな…と思いながらも空白の「十年間」を俺は知りたかった。何か情報がないかと、わざと噂を広めた。
「死んだといわれていた高来の長男は実は生きていた」
俺が色々と言って廻ったことも功をなしてか、時間が経つにつれ地元の連中にも兄さんの事が知られてきた。
狭山は苦虫を噛み潰したような顔をしている。使用人の口から兄さんのことが漏れたんだと思っているようだ。
相変わらず詳しい話はしてくれない狭山にも俺は疑問を持った。
こいつは兄さんの過去を知っているのか…?

調べたら戸籍上では兄さんはちゃんと『生きている』ことになっていた。
じゃあ長男に家督を譲り直そう…と俺は兄さんに提案したが頑としてそれは拒否された。仕方なく俺は毎日当主としての仕事に忙殺される毎日だ。
父さんの代から仕えてくれる狭山がいるから何とかこなしていける仕事。どうやら父さんは裏で相当のこともやっていたらしい…その辺は狭山に任せっきりだから詳しいことはわからないがいずれは知らなければいけない事。
いつまでも『何も知らないお坊ちゃん』ではいられない…

狭山が外出してしまった時、仕事上でどうしてもわからない事にぶち当たってしまった。今日中に処理しないといけない事なのに狭山とは連絡もとれない…
「くそぅ…もうちょっと勉強しとくんだったな…」
経済を専攻していたとはいっても遊んでばかりでろくに授業を受けていなかった俺は今更悔やんでも仕方ないとは思っても後悔の念に駆られた。
「あ〜っ!もうヤダっ!!」
ここ数日の猛暑で更にイライラが増してきた俺は大声で叫んだ。偶然俺の部屋の前を通りかかった兄さんがビックリしたように部屋に入ってきた。
「どうしたんだ?寛弥」
「あ、兄さん」
何だか兄さんの顔を見るとイライラが吹き飛んだような気分になった。
相変わらず外出をしないせいか兄さんの肌は戻ってきた時と同じように透き通るように白い。その白さはたまにドキリとするくらい色っぽく感じる…
「何でもないよ、ちょっと仕事で煮詰まっててさ…」
俺は書類をヒラヒラさせながら苦笑いをして兄さんに愚痴を言った。多分そんなに難しい問題じゃないとは思う。勉強不足の俺がわからないだけなんだ…と。
俺の話を黙って聞いていた兄さんは「ちょっとその書類を見せて」と、俺から書類を受け取り熱心に読み出した。
「…寛弥、多分これは…」
そう言って兄さんは俺のわからなかった箇所を丁寧に教えてくれた。そう言えば習ったような気もする…兄さんの説明で俺はその問題が簡単に解決してしまった。

「…すごい…さすが兄さん…」
俺は感心した。昔から兄さんは頭が良くって何でも俺に教えてくれた。そんな懐かしさも手伝ってか他にわからなかったところも調子に乗って次々質問してみた。兄さんは的確に答えてくれた。
「俺のは本で読んだだけの知識だから実践では役に立つかどうかはわからないぞ」
兄さんはそう言って笑った。
俺はその言葉にハッとして兄さんを見た。
「兄さん、『本で読んだ』…っていつ読んだの?」
こんなの、いなくなった当時の十年前になんてわかるわけない内容だ。だとしたらいなくなっていた間に読んだ本?
俺の言葉に兄さんは一瞬ギクリとした顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな顔に戻り
「…さぁ、忘れたな…」と小さく微笑んで部屋を出て行ってしまった。
俺の中でまた疑問が膨らんでいった…

それから数日間俺は考えていた…もしかして兄さんは本当は記憶なんてなくしてないんじゃないか?
これだけ調べてもやっぱり何一つ情報は入ってこない。謎が多すぎる…
気がつくと俺は兄さんのことばかり見ている。普段はたいてい居間の椅子に腰掛けて本を読んでいる兄さん…綺麗だな…ぼんやりそんなことを思っていた…
ずっと見ていて気がついたことだがたまに兄さんは狭山と目を会わせ黙って見つめあっている。そう、それはまるで何か約束の合図のように…
やっぱり何かある…俺は確信した。兄さんも狭山も何か隠している。
俺は知りたい…兄さんの事、全部。だってたった一人の肉親だろ?何で狭山が知ってて俺が知らないんだ?そんなの嫌だ。俺は兄さんを知りたい、独占したい…
…なんか俺嫉妬してるみたいだ…

熱帯夜だった…悶々とした日々を送っていたせいもあってかその夜俺はなかなか眠れなかった。
気分転換でもしようと庭に出てみた。夜に庭に出るなんて久しぶりだ…誰もいない真っ暗な庭はひっそりとして俺を飲み込んでしまいそうだった。
外に出たところで暑いのは変わらないけどそれでも俺は暫らく庭をぶらぶらしていた。ふと人の気配がした…まさか泥棒じゃないよな…俺は慌てて茂みに身を隠した。
庭から外れた細い道を歩く二つの影…俺は目を凝らした、いや、目を凝らさなくてもその真っ赤な襦袢は嫌でも俺の目に焼き付いた。
女?使用人の逢引か?別に面倒なことにならない限り使用人同士の恋愛を禁じているわけではない。それでも、ちょっとした好奇心に駆られた俺はもう一度その顔を見ようともう一度目を凝らした。
男は…狭山…だった…ビックリした。狭山は使用人になんて興味ないと思ってたのに…意外だな…相手はどの女だ…随分背の高い…あんなのいたかな…?
そう思って今度は襦袢の主の顔を見ようとしたら、不意に女が後ろを振り向いた。俺は慌ててまた茂みに身を隠したが、振り向いたその顔を見て呆然としてそのまま立ち尽くした。
…兄…さ…ん…?
兄さんは俺には気がつかず前に向きなおした。狭山の声が聞こえる。
「どうした、玲弥?」
「…いや、何でもない、誰かいるかと思ったが、気のせいだった…」
俺は二人の後をつけていた。

こんなところにこんなものが…生まれた時から住んでいる家なのに俺はこの蔵の存在を今初めて知った。
二人は当たり前のように中に入っていった。これ以上はもう後を追って中には入れない、何処からか覗いてみようかなと辺りを見回したが高いところに小さな窓が一つあるだけで中を窺い知る事は全く不可能だ。
考えたくないが中で行われている事は…多分…俺は足早にその場を去った。
自分の部屋に戻った俺は兄さんたちにばれないように部屋の明かりは消して、じっと二人が戻ってくるのを待っていた。
暫らくたって二人が戻ってきた気配がした。俺はそっと兄さんの部屋の近くの物陰に身を潜めた。頬を上気させた兄さんが狭山にしなだれかかるようにして戻ってきた。狭山は兄さんの唇に接吻をしその髪を撫でながら微笑み自分の部屋に戻った。
狭山を見送った兄さんも自分の部屋に入る。その襦袢は乱れたまま真っ白な素肌が艶めかしかった…
悪い夢でも見ているような気分になり俺はフラフラと自分の部屋に戻った。

翌日俺は気分が悪いと言って部屋から出ずに昨日のことを考えていた。
兄さんと狭山の関係はここに来る前からのような気がする。
ずっと感じていた兄さんから漂う普通じゃない色っぽさ…多分…兄さんは男娼かなにかをさせられていたんだ。そこに客として行った狭山が俺の話を聞き、もしくは兄さんから話を聞き何とか兄さんをここに戻してくれた…兄さんが外に出たがらないのは昔の客にでも顔を見られるのが怖いから?
俺の辿り着いた結論はこうだった、こう考えれば全てつじつまが合うような気がする。

「寛弥、具合はどうだ?」
兄さんが入ってきた。俺はどんな顔をして兄さんを見ていいかわからず黙って布団に顔を埋めた。
「大丈夫だよ、心配しなくていいよ…」
そう言うのが精一杯だ。兄さんは心配そうに俺の頭をそっと撫でた。真っ白で細いしなやかな指…その指に触れられると俺は何故か身体の中が熱く火照ってくるような感じがしたそっと顔を布団から出して兄さんの顔を見た。唇が、睫が、髪が、全てが…綺麗だ…
昨日狭山とどんな風に愛し合ったの?そう思うと目の前にいる人は兄さんじゃないみたいだ…
堪らなくなって俺は寝た振りをした。兄さんは俺が眠ってしまったと信じてそっと部屋を出た。
俺の中で背徳的な考えが頭を擡げ出した…兄さんが欲しい…

計画を実行しよう…
俺は上手く予定を調整し、狭山に遠方での長期の仕事を任せた。これで当分はこっちに戻って来れない…
狭山が出発して三日目、兄さんは何だか寂しそうだ…俺はやはり嫉妬心を押さえる事が出来ない…
「兄さん、何か最近元気ないんじゃない?」
夜、いつものように本を読んでいる兄さんに俺は話し掛けた。本から顔を上げ兄さんは、そんなことはないよ…と微笑んだ。ウソつき…
「最近仕入れた紅茶なんだけど飲んでみない?」
そう言って俺は英国から取り寄せた紅茶を兄さんに勧める。何の疑問ももたずに兄さんはそれを口にした。
他愛のない会話を続けた。次第に兄さんの瞼が閉じられていく…薬が効いてきたようだ…やがて昏睡してしまった兄さんを抱え俺は誰にも見られないように例の蔵へと向かった。その身には俺が兄さんの部屋から探し出した真っ赤な襦袢だけを着せて…

「…んっ…」
やがて目を醒ました兄さんはゆっくりと瞼を開けた。ぼんやりと辺りを見回して一瞬不思議そうな顔をする。身を起こしながら兄さんは自分の姿と鎖の絡まる左の足首を見て、それから俺の方を見た。
「…寛弥?」
「ごめんね、兄さん…本当はこんな事したくなかったんだけど…」
兄さんは黙ったまま自分の足にかけられた鎖を見つめていた。
「俺、見ちゃったんだ…兄さんと狭山がここに入ってくのを…兄さんたち、そういう関係だったんだね…兄さん、本当は記憶がないなんてウソなんだろ?本当は…無理やりいろんな男に身を売るような生活させられてたんじゃないの?」
兄さんは黙って俺の話を聞いていたが暫らくの沈黙の後ようやく重い口を開いた。
「…それで寛弥はそんな汚れてる俺を軽蔑した…だから罪人のようにこうして繋いでおくんだ…」
怒っているというよりはむしろ諦めたような口調だった。
「違う!そんなんじゃない!俺は…俺はただ…兄さんを…独占…したい…から…」
「…同じだな…寛弥も…」
「…え?何?…同じって?」
言葉の意味を聞いてみようとしたけれど、兄さんはそれには答えず、小さな、しかし深い溜息を吐き、そしてゆっくりと脚を広げた…

「兄さんっ…!」
かろうじて押さえていた俺の理性が飛んだ…そのまま俺は広げられた兄さんの脚の間に顔を埋めた。
男と交わるなんて俺には初めての行為だ…その相手が実の兄…もう俺は地獄に落ちても不思議はないな…そんな事を考えながら俺は兄さんの身体を貪る。
俺は舌を使って兄さんの菊門を嘗め回した。
「…んっ…くっ…」
兄さんの堪えるような喘ぎ声が聞こえる…俺は顔をあげて兄さんを見た。必死で何かに耐えているような顔だった…
「…兄さん…どうしてそんな顔するんだよ…」
辛かった昔の生活を思い出して?実の弟に犯されるから?それとも…狭山のこと想って?何にしろ俺はその顔を見ると悲しい気持ちになってきた…
それを振り払うかのように俺は兄さんを舐め回し続ける。身体を小刻みに震わせながら兄さんは相変わらず声を殺して耐えていた。
程よくその部分が潤ってきたのを見計らって俺は次第に昂ぶり固くなっている自分自身を兄さんの入り口に押し当てた。ビクッと兄さんが怯えたように腰を引く。
「大丈夫だよ、兄さん…」
そう言って俺はまず先端をその秘部に押し込む。
「…ひっ……」兄さんは固く目を瞑っている。俺は兄さんに覆い被さり、そのままの姿勢で兄さんの両足を持ち更に奥を貫く。
「…んぁ…ぁ…っ…」
小さく声をあげ兄さんは俺の背中に爪を立てる。
「…つぅ…」その痛みすら俺にとっては心地いい、俺は更に腰を揺らしながら舌では兄さんの胸元の果実を執拗に舐めそして噛んだ。
「…はぁ…ぁ…ぁ…」固く結んだ兄さんの口から吐息が漏れる。
胸元を攻めるたびに兄さんの中はギュッと締まりその内側の熱さが俺のモノを刺激する。
「兄さん…凄く…いい…よ…」
思ってた通りの兄さんの身体、こんなにも俺を悦ばせてくれる。
俺は望むものを手に入れられたんだ…

虚ろな目でじっと天井を見つめたまま横たわる兄さんを俺は優しく撫で回した。
「兄さん、暫らくの間二人だけでここにいような…」
仕事の方は暫らく休暇という形で処理しておいた。だから俺はその間兄さんとずっと一緒だよ。
何も言わない兄さんを抱きしめるように俺はそのまま眠ってしまった…

「食事持ってくるから待っててね」
翌日、俺は部屋で篭って仕事をするからと言って、多めに作らせておいた食事を持って蔵に戻って来た。
兄さんは膝を抱えながら、また足首の鎖を見つめていた。
「ごめんね…でも兄さんがどこかに逃げ出したりしたら…俺…嫌だから…」
「…俺は…逃げないよ…また元に戻るだけなんだから…」寂しそうに兄さんが呟いた。俺は再び意味のわからない事を言われ一瞬きょとんとなる。でも、「逃げない」という兄さんの言葉を信じて足の鎖を外してあげようとした。
しかし兄さんは「罪深い俺にはこの姿がお似合いだ…」と俺の手から鎖の鍵を取り上げてしまった。
罪深いのは俺だって同じじゃないか…いや、むしろ俺の方が重い罪だよ…

食事をとりながら俺はあらためて蔵の中を見回す。中はほの暗く、昼間でもランプか蝋燭でもつけていないとならない。座敷牢のようなところなのに何故か大量の本がうず高く積まれている。不思議な空間だ…
あまり食欲の無い兄さんを心配するが、兄さんはただ黙って俺の方に向かって腰を突き出す。
誘惑には勝てずに俺は喉を鳴らし、昨日のように兄さんに貪りついた。
兄さんはやはり昨日と同じように声を殺すようにして喘ぐ…まるで声をあげることが罪であるかのように…
窺い知る事の出来ないその顔はいまどんな表情をしているの?俺はまた切ない気持ちになって激しく兄さんを後ろから貫き揺らし続けた…

俺は昼も夜も誘われるままに兄さんを抱く、そんな日々が過ぎていった…

俺は次第に兄さんがこの蔵の中にいると妙に溶け込んで違和感がないことが心に引っかり始めた。
蔵の中の大量の本…よくよく考えてみたら兄さんが男娼をさせられていたのなら何故あんなに色んな知識を持っているんだ?「本で読んだ」と兄さんは言っていたじゃないか…
「元に戻るだけ」…意味のわからない兄さんの言葉が思い出された…まさか…?俺はそのことを兄さんに確認するのが何だか怖かった…
兄さんは相変わらず俺を誘惑する…でも、俺はもう兄さんを抱いていない。耐えるような顔で俺に抱かれ続ける兄さんを見るのが辛かったから。
あんなに兄さんが欲しくてたまらなかったのに、兄さんを独占したかったのに…思い通りになったはずなのに、何故だろう、こんなに虚しく悲しいんだ?

兄さんは段々食事をとらなくなり、昨日からは全くといっていいほど何も口にしていないぼんやりとした顔で壁にもたれたままの兄さんを見て思った、悔しいがもう限界だ…こんな兄さんを見ているのはもう俺には耐えられない…
「もう、帰ろう…」説得するが兄さんは戻るのを拒否し続ける。
「お願いだ、兄さん、帰ろうよ…鎖の鍵返してよ…」
あの時兄さんに取られた鍵はどこかに隠されたままだ…
俺はひたすら兄さんを説得する。しかし兄さんはじっと膝を抱え俯いたままだ…最後の手段とばかりに俺は言った。
「狭山ももうすぐ帰ってくるからさ…」
俺の言葉にピクッと兄さんは反応し、ようやく顔をあげて俺の方を見た。
「尊は…いつ帰ってくるの…」
俺はちょっと胸が痛んだ。こんな状態でも兄さんは狭山のことを忘れていないんだ…
「明後日だよ…兄さん…狭山に会いたいの?」俺に言われて兄さんは小さく頷いた。
「じゃ、戻って狭山を待とうよ…」俺は再度説得したが兄さんは首を横に振るばかり…
「俺はここから出てはいけないんだ…」と、うわごとのように呟きながら。
「何でだよ!」俺は叫んでいた。狭山に会いたいなら帰ろうよ、俺が嫌いなら二人で何処に行ったってもう構わないから…
俺は鍵を探して蔵を片っ端から調べた。強引にでも連れて帰る為に…兄さんはそんな俺の足もに必死でしがみつく。弱った身体の何処に残ってたのかと思うほどの力で。
「止めろ、寛弥…これを外されたら…俺は…死にたくなる…から…」
自由になったら自分でもどこに行って何をするか判らない、だからこうして鎖に繋がれた惨めな姿でいれば死ぬ気力も無くなる…
そう訴える兄さんに俺は言葉を無くし黙ってその場に座り込んだ。

どうしていいかわからず俺はただ兄さんを見ているしかなかった…
そして狭山が帰ってくる日になった。
「兄さん、狭山連れてくるから…待っててね…」
一人にしておくのは不安だったが一刻も早く狭山に会わせてあげないと…そうしないと兄さんは…
帰ってきたばかりの狭山に俺は縋るように言った。
「お願いだ…狭山…兄さんを…兄さんを救って…」
俺のただならなれぬ様子に驚いた狭山だったが、とりあえず落ち着け、と宥められた。一呼吸置いて俺は狭山に全てを告白した。
俺の告白を黙って聞いていた狭山は話し終えた後に俺の頬を思いっきり叩いた。
殴られても何も文句が言えない俺は「すまない」と何度も狭山に謝った。
「俺に謝ったって意味なんて無いよ…」
そう言って狭山は蔵へと向かった。俺も慌ててその後を追う。
「…話すしかないか…俺たちの…いや…玲弥の秘密…」
歩きながら狭山は語り出した…俺の知りたかった空白の十年間、兄さんはどう過ごしていたのか…
あまりの事実に俺は驚愕した。…父さんが…そんなことを…酷過ぎる…
「玲弥は寛弥のことを思ってずっと耐えてきたんだ…」
狭山の言葉に更に俺は心を抉られた…そんな兄さんを俺は…結局俺のやった事は父さんと同じ事だったんだ…
「同じだな…寛弥も」兄さんの言葉が頭の中に蘇った。
その言葉を兄さんはどんな思いで言ったんだろう…俺のために全てを捨ててきた兄さん、そんな兄さんに俺がした仕打ちは…なんて取り返しのつかないことを…
全てを狭山に託そう…俺はそう思いじっと蔵の外で待っていた。
多分狭山しかいない、兄さんを救えるのは…だって兄さんは言ってたじゃないか『尊はいつ帰ってくるの』って、深い絶望の中でたった一つの希望のように…

とても長い時間に感じられた…
狭山がぐったりとした兄さんを抱えて蔵を出てきた。心配そうに駆け寄る俺に狭山は「大丈夫だ、眠ってるだけだから…」と言ってそのまま歩き出した。俺もその後を黙ってついて行った。
兄さんを布団に寝かせ、赤く腫れた足首に薬をつけ包帯を巻く狭山。白くて綺麗な兄さんの足に刻まれた赤い痕…俺は怖くて申し訳なくて兄さんに触れることすら出来ないでいた。
「…俺…どうしよう…もう…兄さんに…会わす顔無い…」
ずっとずっと大好きな兄さん…俺は自らの手でその兄さんを壊してしまったんだ…兄さんはきっと俺のこと許してくれない…涙が頬を伝った。
そんな俺を見て狭山は静かに言った。
「…玲弥は言ってたよ、『どんな事があっても寛弥は可愛い俺の弟だ…』ってな」
「でも…、兄さん…死にたい…って…」俺は途切れ途切れに言葉を吐き出した。このままだといつか兄さんは遠くに逝ってしまうんじゃないか…せっかく帰ってきてくれたのに…
「大丈夫、それは俺がキツク言っといたから」眠る兄さんの髪を優しく撫でながら狭山は言った、そして俺の方を見て言葉を続けた。
「…俺は…お前達の父親から玲弥のことを託されたんだ…だからどんな事があっても玲弥を守る…絶対に大事にする…そう誓ったんだ…」
俺は狭山の言葉に黙って頷き、静かに頭を下げた。
「兄さんを…頼む…」
狭山は小さく微笑んで言った。
「俺だけじゃなく、お前も一緒に玲弥を守ってくれよ。たった一人の肉親だろ?」

暫らくの間狭山は兄さんにつきっきりだった。俺はやはり兄さんの顔を見るのが怖くて兄さんの部屋に入れないでいた。
「寛弥、玲弥が会いたいってさ」ある日狭山が俺に言った。
心の整理もまだつかないまま俺は促されるままに兄さんの部屋におずおずと入った。
「…寛弥…」戻ってきた時と同じように優しく俺を見つめる兄さんを見たとたん俺は堰を切ったように大声で泣き出した。
「ゴメン、ゴメン…兄さん…俺…俺…」言葉が出ない…何て詫びたらいいんだ…俺の犯した罪を…
嗚咽交じりに泣きじゃくる俺の髪をそっと撫でながら兄さんは言った。
「寛弥、もうすぐ夏祭りだろ?一緒に行こう…昔みたいに…」
うん、うん…と俺は何度も頷きながら兄さんの胸に顔を埋めて泣き続けた。
ごめんなさい、兄さん…許してくれなんて言わないから、もう二度と壊したりしないから、だから、絶対もう何処にも行かないで…

夏祭りの夜。浴衣に着替えた俺たちは出かける準備を整えた。
「ゆっくり楽しんで来いよ」
狭山に見送られて俺と兄さんは祭りが行われている神社へと向かった。
一緒に行こうと誘ったのに狭山の奴、「たまには兄弟水入らずで過ごせって」と留守番を決め込んだ。
「懐かしいな…」本当に懐かしそうに兄さんは呟いた。そう、兄さんがいなくなる前までは毎年二人でこの神社に来てたんだ。
人ごみに兄さんは少し躊躇したようだ。無理もないけど、それでも俺は兄さんの腕を引っ張って中へと進んでいった。
みんな俺と兄さんを見て一瞬面食らったような顔をしている。
「…玲弥坊ちゃん…ですか?」ボーっとしたように見とれながら兄さんを見る奴もいる。老若男女誰もが兄さんに見とれてる。みんなの反応を見てるだけでも面白い。
俺と兄さんは少し離れたところで腰をおろし行き交う人々を眺めていた。
「…兄さん…」呼吸を整え俺は兄さんに話し掛けた。
「ん?」
「…父さんのこと…恨んでる?」
「……」兄さんは何も答えない。
「…もし恨んでいるんなら…その恨みは俺が全部受け止めるよ…俺の分の恨みと一緒に…どんなに俺の事…恨んでも憎んでもいいから、絶対何処にも行かないで…」
「どうして寛弥の事を恨んだり憎んだりしなきゃならないんだ?」兄さんが静かに俺に言った。
「だ、だって俺は兄さんにあんなヒドイこと…」
「寛弥…」俺の話を遮るように兄さんが語りかけた。
「…父さんのことは…恨んでいない…と言ったら嘘になるけど…それでも俺にとっては父親だったから…」ゆっくりと言葉を選びながら兄さんは更に続けた、
「それに寛弥、あの事は…もういいんだよ…尊から聞かなかった?どんな事があっても寛弥は俺の可愛い弟だ。安心しろ、俺はもう何処にもいかない…寛弥と…尊がいるから、もう馬鹿なことは考えない…」
「…兄さん…」黙って兄さんの話を聞いているうちに俺は目頭が熱くなって来た。
「何涙目になってるんだ、寛弥。高来家の当主なんだからしっかり威厳保てよ…」
兄さんがニッコリと笑って俺に言った。俺もつられて泣き笑いのような顔をして兄さんを見た。

川辺を歩きながら俺たちは帰った。星が綺麗だった。
兄さんは目を細めながら満天の星空を見上げ「広い空は…いいものだな…」と言った。俺も黙って兄さんと一緒に星を仰いでいた。
星を見ながら俺はずっと考えてたことを兄さんに話すことにした。
「あのさ、兄さん…、俺の仕事、兄さんにも手伝って欲しいんだ」
兄さんは少し驚いたような顔をしたが、苦笑しながら答えた。
「でも、寛弥…俺はずっと…」
兄さんの言葉を遮るように俺は一気にまくし立てるように言った。
「兄さんは色んなこと知ってるよ、ずごいよ、俺なんかじゃ歯が立たないくらいだよ。実践でどうかなんて、そんなの実際にやってみてわかるもんなんだぜ。俺は偉そうなこと言えないけどさ…狭山なら、本当に色んなこと知ってるからさ、だから狭山と一緒にいて学んでいけばいいと思うよ」
兄さんは更に驚いたような顔をして俺を見ている。
「大体、俺にめんどくさい当主稼業押し付けたんだから、それくらい手伝って貰わないと割りに合わないよ。それに兄さんだって狭山とずっと一緒にいられるんだ、嬉しいだろ?」
「…馬鹿…何言ってるんだ…」
俺のとどめの言葉に兄さんの顔が少し照れたようになった。何だかその顔を見ると俺は嬉しくなった。あの時のあんな辛そうな兄さんの顔はもう見たくない。

帰り道、兄さんが言った。
「寛弥、秋になってもう少し日差しが弱くなったら、別荘に行ってみたい…」
今度は俺がビックリした。兄さんが自分からどこかに行きたいって言うなんて。
「…いろんな思い出の場所に行って、俺と寛弥の十年間を埋めていきたいんだ…」
兄さんは俺を見て優しく微笑んだ。
俺は相槌を打ちながらその笑顔を見て、やっぱり綺麗だな…と少し見とれていた。
この笑顔がいつまでも兄さんから消えませんように…俺は星空と、そして狭山に向かってそう願っていた…

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